価値

いつから物事の価値はすべてそれがお金に繋がるかどうかが基準にされるようになったんだろう。どこが境い目だったかはぼんやりしているけど、絵を書くとか読書とかゲームとか音楽とかスポーツとか、そういう趣味とか習慣は最終的には「それが仕事になる訳でもないし」と言って、ある日突然価値を無くしてしまう。その最終的というのも高校やら大学やらを卒業する頃で、そのあとも何事もなければ何十年も生きる。自分はそれがずっと頭のどこかにあって、自分のやりたいことをやる一方でそれに意義を見出すのにも必死だった。

 

高校生のとき生徒会長をしていて、当時の生徒会顧問に実績欲しさにこき使われていた。休みの日も学校に来ていた。生徒会活動が大変だったなんて言っても「その程度で」と言われる。説明するのも面倒だから割愛。そのときは自分がここまで疲弊してまで「立派な生徒」でいる意味がわからず、ただ「進学の時に役に立つ」と暗示をかけられるままにそれを信じてやまなかった。いざ自分が3年生になって、「進学に役立てる」時期になったはずのときも「立派な生徒」でいるために酷使され続けていて、同級生が面接練習や志望動機の添削を受けているのを横目に生徒会のことをさせられていた。どの先生に話を持ちかけても「あなたなら大丈夫」と言うだけで、「大丈夫じゃない人」の進路指導をしていた。あのとき、自分は誰よりも大丈夫じゃなかった。毎日始発で学校に来て、同級生が勉強している間昇降口に立ってあいさつ運動なんて馬鹿げたことをして、昼休みも何かを食べる暇もなく資料を作って、放課後面接練習をしている同級生と違う教室で1人で作業をして、顧問よりずっと遅くまで学校に残って終電で帰った。休日は学校周辺地域の集会に出席させられたりその資料を作ったりで結局学校にいた。授業で出される課題を終わらせるのも困難だった。毎日3時間くらいしか寝ていなかった。いつの間にAO入試やらで合格を勝ち取った同級生たちはすっかり受験生を終えていたし、面接練習をしていた放課後の時間は就職が決まった生徒が友人と喋る時間に戻っていた。

大丈夫だと言われ続けた自分だけが取り残されていた。親が来ないから三者面談もしたことが無いし進路指導も何一つ受けたことがない。何も言っていないのに自分は県内の国立大を志望していることになっていた。ある日ついに気が狂って、この人たちは自分のためを思っているんじゃなくて「立派な生徒を育てて県内で唯一の国立大に進学させた」という実績が欲しいだけだと気づいてしまった。ぶつりと糸が切れて、朝いつも通り5時過ぎに家を出たあと学校に行かずぼんやりしていた。それ以来勉強に一切手がつかなくなって学年1位だった成績はガタ落ちしたし、課題もこなせずそれを指摘されるのも怖くて学校にも行かなかった。思い通りになってたまるかという反抗心で国立大の推薦を蹴って、全然有名でもなく偏差値も低い大学を、自分で学費を払えるということだけで選んだ。結局進路指導は1度もなかった。卒業式の日、思ってもいない綺麗事を書いた答辞を読んだ。会う先生全員にあなたは立派な生徒だったと言われた。みんな死ねばいいと思っていた。多くの人があの頃は楽しかったと振り返る青春の時間。自分にとって、役に立たなかった高校の3年間は、価値がなく味もない砂漠になってしまった。

 

「将来役に立つ」という価値の基準が自分には全く信じられない。けど、自分が勉強をしても、アルバイトをしても、部活をしても海外に行っても何をしてもその理由も聞かずに「それはきっと就活(将来)に役立つよ」なんて言われた。その言葉はたぶん大学生に向けた何の思考もない単純な褒め言葉みたいに扱われている。ほんの小さい規模であれ起業をしたときですら「就活に役立つよ」なんて言われたもんだから、こいつは頭がいかれてるのかと思ったし、嫌味なのかとも思った。大きな夢だろうが自分はこれをやりたいと、そのためにたくさんの努力と時間をかけてきたものに対して「それでお金を稼ぐのは無理でしょ、どこかに雇われるためにアピールするのには使えるんじゃない」と何も知らない第三者は何故か上から将来役に立つかどうか、というものさしを押しつけてくる。人間はみんな就活をしてお金を稼ぐために生きているのかと思う。自分はそれがとても浅はかだと感じていたし、そういう人たちをずっと軽蔑していたから自分が何かをしても誰にも言わなくなった。小さな子供がクレヨンで絵を描くのと同じように自分は好きなことをしているだけなのに、大人は勝手に評価する。他人からも評価を得て1人前というような風潮がとても強くて、評価を避けるのは臆病だとか成長しないとかそんな意見で溢れているけど、人は誰も他人のことは知らないし理解できないんだから公正な評価なんてどう行うと言うのか。TOEICで満点をとったとして今時TOEICは役に立たないから価値がないなどと言う人もいるくらい(そしてそういう人がTOEICTOEFLで満点を取っているとは限らない)なのに、点数もつかないことをどうやって価値があるとかないとか決めるんだろう。何に対してもそうやって判断しようとすることは何にでもマウントをとろうとすることと同じだと思う。

 

「将来に役立つ」というものさしをあてたら、その瞬間自分が今まで過ごした時間はきっと全部価値がなかったことになって灰になってしまう気がする。自分はそのものさしを疑問に思い続けてはいるけれど、自分の過去はどうもそれで測ってしまう。受験生も、就活生も、不合格や不採用を受けたら、今までのいろんなことは価値がないとされてしまう。みんな夢を追っているんじゃなくて、生きた時間を灰にされたくなくて必死になっているように見えてしまう。自分は必死になれないまま、馬鹿な夢を捨てきれずにただ時間を過ごしている。大人になることを現実に考えたときから、夢は無価値だ。