実家に帰らないことで唯一の心残りだった、猫。自分と誕生日が同じで、毛がモサモサで、気に入らない人にはすぐ噛み付いて、爪切りが大嫌いな猫。

中学生の頃、学校に行かずずっと家で絵を描いている自分といつも同じ部屋にいて、くっついたり絵の上に寝っ転がったりしてきた。

ときどき脱走しては外をのんびり散歩したり道端に一緒に座ったりした。

高校生になって、早朝に家を出て夜遅くに帰ってくる自分を毎日玄関まで見送って出迎えた。お風呂に入ってきて浴槽に尻尾の先だけいれてゆらゆらさせていた。いつも左腕を枕にして一緒に布団をかけて寝た。撫でてやると目を閉じて喉を鳴らして、悩みを静かに聞いてくれた。小さな鼻息が自分の鼻にかかると安心した。猫の寝相が悪いと顔を枕にされたりもした。

 

大学に進学するとき、家を離れられるのは一生の望みが叶ったようだった。でも、猫だけが気がかりだった。ずっとそばにいてくれたこの気まぐれな猫を、自分は置いていく。悲しくてたまらなくて泣いた。さよならをしたとき、猫はいつも通り自分を玄関まで見送った。撫でると目を細めた。あの日、猫は何を思ったんだろう。いつもと変わらなかったのか、それとも何かを察していたのだろうか。

卒業したら、こっそり実家に行って猫をさらってこようと思った。猫は人を忘れるともいうから、また会ったときに思い出して欲しかった。それまでは忘れてのんびり過ごしていて欲しい。4年目の夏。猫を置いて行くと決めた大学は辞めることになった。

 

今日、絶縁状態の母親から連絡が来た。猫が、病気だった。もう末期で、歩くこともできないという。今週末までもつかわからない。何があっても二度と行かないと決めていたのに、電車の乗り換えを調べて、家を出ていた。明日は病院に行かないといけないから、本来ならそのあとの方が良かったのだろうけど、今行かないといけないとわかった。

 

猫を迎え入れるまで、ハムスターを2匹飼っていた。不思議なことだけど、2匹とも死ぬときは自分が一緒にいた。1匹は小学生のとき、何かが不安で落ち着かなくて、仮病を使って家に帰った。巣箱で寝ているようで姿が見えないハムスターのことが、いつもの事なのに妙に気になって巣箱の蓋をあけた。普通ならびっくりして起きるはずなのに大人しく丸まったままで、そのまま眠るように息をしなくなった。2匹目は中学生のとき、夜中に突然目が覚めた。なんとなく電気をつけてゲージを見たらハムスターが巣箱からよたよたと出てきて、様子がおかしいから手に抱いた。目があかなくて、撫でていたらしばらくして動かなくなった。どっちも5,6年くらい生きたから、長生きな方だったんだと思う。たくさん泣いた。ただの偶然なのか、それとも動物には人には説明できない不思議な何かがあるのかわからないけど、きっとそういうものはあると思う。だから、今猫に会いに行かないといけない気持ちに従うべきだと思った。

 

自分の背にナイフを突きつけ続けたこの4年間、猫はどう生きたんだろう。死ぬことばかり考える自分の本来ある寿命を全部あげて、のんびり暮らしてくれたらどんなにいいだろう。その病気を全部もらって、痛みに喘いで命の終わりを感じられたらどんなにいいだろう。時間も命も、すべてが不平等だ。なんの罪も犯しようがないただの猫が病気で動くこともできなくなって、まともにただの人間にもなれなかった自分がなんの問題もない体をもって無駄に時間を過ごしている。自分の唯一愛しい存在が消えようとしている。誰もいない電車の中でこれを書いている。あと30分くらいで乗り換えて、また1時間。そして20分歩いてつくあの醜く窮屈で淀んだ場所にいる。首輪が嫌いで、どんなおやつより普通のキャットフードが好きで、肉球が黒くて、目が綺麗な猫。猫じゃらしを振る人間を呆れた顔で見て、普段まったく鳴かないのに名前を呼ぶと返事をする猫。迎えたばかりのころ階段を上るのに苦戦していた猫は、自分の何倍もの速さで歳をとって、また階段を登れなくなってしまった。いつも一緒に寝たあたたかい体は、あの日のハムスターのようにゆっくり冷たくなっていくのだろうか。大人になった自分はもう避けられないことだとわかっている。何をしようとしなくとも、かろうじてまだ繋いでいるか細い命はもうすぐ消える。もう一度一緒に眠りたい。自分は今でも左を向いて寝ているよ。置いていった自分が言えたことではないが、その時は一緒に連れて行ってはくれないか、愛しい猫。