浮かぶ

この前、友人たちと自分も合わせて6人でバーベキューをした。いろんな道具とか食べ物は全部友人たちが用意してくれていたから、自分は前に遊んだときに使った水鉄砲と、水風船を買い足して持って行った。

迎えに来てくれた車に乗って海の近くに住む友人の家に向かう。毎年バーベキューをしている彼らは要領よく準備を進めていき、自分が水風船に水を詰めたり火を起こすのを眺めているうちにあっという間に整った。毎年テントを持ってきていた人が来れなかったから、テントはなし。日陰もなし。灼熱のバーベキューだ。ちなみに、火は起こるものでなく育てるものらしい。意味はよくわからない。

 

昼前から始めて気づいたら夜の8時。ただ喋ったり水遊びをしたりもしたけどいったい何時間肉を焼いていたのか、すっかり片付けも億劫になってだらだらと喋っていた。なんとなく言っておこうと思って、大学辞めることになったんだよねと笑いながら言った。自分より6つも年上の大人な友人たちはやっぱり同級生ほど驚いたりはしなくて、そうなんだとちょうどいい温度で返事をしてくれた。でも、1人だけ真剣なトーンで辞めない方がいいと言って、自分は苦笑いをしてしまった。

 

大学生のうちは自分はなんでもできるような気持ちになるけど、実際何もできない。いくら性格が良くたって、いろんなことを頑張ってきたって、人柄なんて見てもらえない。「大卒」という資格は希少なものでは無いけれど、それがないだけでだいたいのことから門前払いをされる、辞めたらお前が過ごした4年でやってきたことも無駄になる、と。

 

痛かった。耳も頭も心臓も、全部痛かった。既に「社会」に出て何年も働いている真っ当な大人の真っ当な意見は全部正解だ。その言葉の中には自分が起業でつまづいたとき、就職試験を受けたとき、辞める状況に追い込まれたときに自分の首を絞めたことが全部入っていた。何十回何百回と頭を支配して、でも見ないふりをするのが上手くなってきた今突きつけられた正解は正しすぎて苦しかった。何も返せず苦笑いをする自分を突き刺すような視線が暗がりの中でもわかった。正しい大人が真剣に諭してくれているのを笑って誤魔化そうとする自分が情けなかった。でもお金が払えなくて辞めるなら、どんだけ悔しくても親に頭下げて卒業させてもらうべきだと言われた。親や家族は最後の砦だと。それを聞いて、笑うこともできなくなった。

結局逃れられなくて学校を辞める事情を話したら、友人はそれ以上何も言わなかった。どうにかならないかといろんな案を出してくれたけど、全部この数年で自分がたくさん調べて試してだめだったことだったから、どうしようもないことだとわかってくれた。友人の1人は、お前みたいなのがお金なんて事情で学校を辞めないといけなくなるなんて社会の仕組みがおかしいなんて言っていた。自分はやっぱり苦笑いしかできなかった。そのあとは普通にまたふざけた話をして、だらだらと片付けて解散した。楽しかったのに、帰ってから泣いた。

 

 

2週間ぶりの病院で、先生にそのことを話した。辞めることになったけどそれは自分が頑張った結果だから仕方ないとか、全部自分のやったことの結果だから何も理不尽なことなんて無いとか、これからきっとなんとかなるとか、ずっと自分に言い聞かせて納得した振りをして遠ざけていたことを直面させられて苦しかった。でもそれは自分も本当はわかっていたことだったからなんの反論もないどころかその通りだと思った。

 

暴力に耐えた日々も、狂ったように勉強した高校時代も、1人で生きていってやると決意して家を飛び出したことも、体を壊しても毎日バイトをして必死にお金を稼いだことも、たくさん勉強して起業したことも、大学で勉強したことも、部活の体制を作って引っ張ってきたことも、何もかも、全部無駄になってしまった。何ひとつ報われなかった。頑張れば報われるはずだと、報われなかったのは自分のせいだと言い聞かせていたのに、こんな理不尽ならどうやって生きれば良かったんだ。

 

話しながらみっともなく泣いた。先生は黙って聞いてくれた。そのあと、あなたは今悲しい気持ちに向き合っているところなんだねと言った。

悲しい気持ちは嫌なものではなくて、でも向き合うのはとてもつらいけど必要なことだ。悲しい気持ちでいる自分が情けないと思ってしまって、そんな自分を責めたり奮い立たせようと自分自身に石を投げてしまう。でもそうではなくて、そんな自分に優しくしてあげることが大切だと。

悲しいときは悲しいままでよくて、自分が原因じゃない理不尽なことはあって、それを解決しようとしたりバネにしたりしようとしなくていい。

自分自信に石を投げてしまう自分がいてもよくて、それを理解して優しくしてあげる自分もいるようになればいい、と。

 

1年くらい前、友人に言われたことを話した。「例えば10の目標を立てたとして、俺は結果7くらいでもまあありだなと思うけど、お前は10じゃないと全部無駄だったと思っちゃうよな。それもったいなくないか?」

 

それを聞いた先生は、目標の途中で終わったときの満足度を得られるかどうかはその人がそれまでにどんなレスポンスをくれる人と接してきたかによると言っていた。10のうち7で終わってもその分を認めてもらえる人がいる場合といない場合では後者のほうが「10にならなければ」というプレッシャーが強く、間の1から9がなかったことになってしまうらしい。そしてどんなレスポンスをくれる人が周りにいるかは結局運次第で、本人の力でどうこうできることではないと。自分が高校時代、90点を取っても「残念だったね」、100点を取っても「まあいつも通りだよね」と言われてひどく虚しかったことを思い出した。本当は、もっと褒めてほしかった。

 

悲しんでいる間はぐるぐると悩み続けて何も変わっていないと思ってしまうけど、上からみたら繰り返しでも横から見れば螺旋階段みたいにちゃんと少しずつ変化しているよ、と先生は最後に話してくれた。なんだかすごく納得した。そして、あなたは今まで向き合う暇もなくがむしゃらに進んできたけど、今その悲しみと向き合っているんですよ、それだけで十分ですよと言ってくれた。悲しい気持ちに溺れるでもなく、無視して泳ぐでもなく、今はただ、浮かんでいようと思う。